塚田傳兵衛さん|漆掻きさん(2)

今回からは、何らかの文章に記された(記録に残る)漆掻きさんについて書きます。

東北の地で、越前(福井県)の漆掻きさんといったら、まず第一に挙げられる人物は塚田傳兵衛さんでしょう。

漆掻きさんからスタートし、多くの漆掻きさんを束ねる元締めとなり、その後は漆採取を大がかりな事業として展開する親方となった福井県旧河和田村出身の方です。

明治になり最初に南部地方(岩手県二戸郡浄法寺町青森県三戸郡田子町周辺)へ漆掻きに行ったという記述が残ります。

田中庄一氏は『二戸漆の研究』で次のように記しています。

塚田傳兵衛(河田村*字中村)-梅田彦次郎(東京支配人)
・事業地・会津地方(番頭・梅田彦次郎)
・事業地・天童地方(番頭・吉田五右衛門)
・事業地・田子地方(番頭・宮川右門、左々木勘重)

塚田与三兵衛(河田村*字中村)-仲下彌平(東京支配人)
・事業地・一戸地方(番頭・伊藤甚衛門)
・事業地・天童地方(番頭・木村市五郎)

*河田は正しくは河和田です

ここに記した傳兵衛さんと与三兵衛さんは、出生地は同じで血縁関係があったでしょう。二人とも同地区に事業地をもっています。
一戸地方の事業地は明治16年開設であり、田子地方はそれよりも早いのではないか。

ほかとは違い田子地方には番頭さんが2名配置ということから、より広く重要な事業地が田子地方であったと想像できそうです。
東北地方で大きな勢力を持っていたということになるでしょう。

以上が6代目塚田傳兵衛さんです。

7代目については、『回想 河和田の里』は次のように記します。

一朝に巨財をなくした今様「紀ノ国屋」-塚田伝兵衛
(略)先代が漆で築き上げた村一番、といってもずば抜けた巨富を大尽遊びに蕩尽したさまは、さながら江戸時代の紀ノ国屋文左衛門そっくりであった。(略)生まれたのは明治26年。河和田村一番の富豪といわれた塚田伝兵衛家六代目の長男で、(略)父が死んだのは明治43年。(略)宏壮な家は明治37年、まだ存命中の父が建てたものだが、床の高いさながら御殿のような家であった。家の内部はみんな漆塗り。風呂場も村で一軒しかないタイル張り。(以下略)

人の案内で訪ねてはみたものの建築物の痕跡は見えず、一面雑草におおわれていました。平成10年ごろのことです。

(文献により「伝」と「傳」を使い分けました。)

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執筆者プロフィール

橋本芳弘
昭和30年  青森県三戸郡新郷村谷地中に生まれる。
昭和52年  弘前大学 工業試験場 漆工課卒業
昭和52年~ 教職に携わり夏休み中に全国の漆産地を行脚
平成8年~  平成21年度青森県史編纂調査研究員(文化財部会推薦)
平成28年~平成31年3月  青森県新郷村教育委員会教育長

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